前回もお話しましたが 今回は旅ネタではなく
「 私の家の話 」 です。

近所の桜


色々撮りためていたお料理の写真と共に書いていきます。
最後に 昨年秋に横浜に新しくできた 
「 横浜ベイコート俱楽部 」の中華レストランの写真も
少し載せてあります。

さて このブログを昔から読んで下さっている方は
覚えておいでだと思いますが わが家は7人家族で
私達5人家族の他に 高齢の私の父母が同居していました。
( 最初は二世帯でしたが 最後はほぼ同居でした )

↓ これは一世代前の 私が3歳の頃の家族写真です。

家族写真


3歳の私と4つ上の姉、母に抱かれた2つ下の妹の3姉妹、
それに父母と祖母です。

写真に写っている家族で 今 生きているのは
3歳の私と母に抱かれた妹 だけになってしまいました。


以前のブログには 時々 父母が登場していました。
元気でたばこを吸っていた父です。
母もすご~く元気で 晩年になっても
二人して頭もしっかりしていました。

記憶力も半端なく良くて その上数字にも強い二人でしたので
しっかりしているがゆえに かえって色々気苦労が
絶えない私たち家族でしたが 家族揃って楽観的で気楽な
性格だったので 案外 楽しく生活していました。

以下 写真の説明はピンク色にしてあります。
写真はわが家のお嫁さんのお料理で
センスあふれるBBQの食材が並んだ食卓です。


BBQ パーティー


反対側からの写真。

盛り付けも素敵です


ところがさすがに歳には勝てず 父が95歳で3年ほど前に 
母も96歳でその一年後に亡くなりました。

あっぱれな最後だったので 報告方々 ちょこっと
聞いていただこうと思い ここに書く事にしました。

人生の最後まで あまり涙もなく すがすがしく
逝った父母には 心から感謝しています。

お嫁さんがもてなしてくれた
昨年のバレンタインデーのお料理です。


前菜鶏肉のオレンジ煮


父母は 90歳くらいまでは私達家族や 兄弟親族と
いつも旅行をしていました。
父母はもとより 祖母も旅行好きだったので
着物を着て 東北や伊勢志摩、温泉に行っていたのを
よく覚えています。

明治生まれの祖母が 伊勢志摩だなんてよく行ったものですね。

デザートまで美味しく戴きました。

デザート


そんな元気な父母でしたが 父が90歳の頃 
心臓の手術をして その時の検査で父の肺がんがわかりました。

口から管を入れて肺の生検をするという話も出ましたが
たとえがんの詳細がはっきり分かったとしても
この病院では その歳だと手術や治療はしない事
また 寿命で死ぬか 肺がんで死ぬのかは
誰にもわからないという事で わざわざ苦痛を伴う生検を
するのはやめる という事になりました。

先生からは 取り合えず肺がんのことは忘れましょう、
と言われ 定期的に心臓の先生だけに診てもらっていました。
( 画像診断だけですが 肺がんのステージは4で
  余命は 早ければ半年くらい、と言われました。)
勿論 咳や痰の薬は出してもらっていました。
幸いなことに進行が遅かったのでしょう、
本人はさほど苦しがりもせず その後5年以上も
生きていました。

( 余談ですが主治医の先生は 肺がんについて
  父母には 肺に腫瘍が出来ていると告げました。
  悪性とか癌とは言わなかったので 父も母も 
  あ~腫瘍ね、と「おでき」的なものだと思い 
  深く考えなかったので周りの者にとっては幸いでした )

以下は私のお料理です。
ニトリの黒い四角いお皿を買いました。
ニトリの写真と同じように作ってみました。


ニトリのお皿で


その5年の間 心臓や骨折などで何度か手術や治療で
入院しましたが そのたびに復活して 
先生や看護師さんを驚かせていました。
また父は明るい性格で いつも周りの人に感謝していたので
病院でも看護師さんたちには仲良く接して頂き
それなりに楽しそうに入院生活を送っていました。

入院時以外は普通に家で生活していました。
ただ介護度は徐々に上がり 車いすで常に介護が必要になり 
週2回のディサービスにお世話になっていました。

ドラマ「俺の家の話」を見て まさしく同じような
介護生活だったこの頃のことを なつかしく思い出し
また涙も少し出ました。

お友達が来た日に作ったランチです。
左の黒いニトリのお皿が活躍中です。


お友達とランチ


介護4になった時に 病院の先生やケアマネさんからは
施設に入所することを勧められました。
でも 施設への入所は母が嫌がったので 
ショートスティと週2回の家でのヘルパーさんのケアで 
あとは私と母と主人の3人で面倒を見て 
何とかしのいでいました。


この頃 私は何度目かの再発がわかったころで 
新しい抗がん剤の治験で髪の毛が抜けたり
体調がすぐれないことが多く 苦労しましたが
妹や家族の周りのみんなの協力で 何とか
やりくりしていました。
何と言っても 主人が献身的にサポートしてくれたので
やっていけた、というのが本音です。
血のつながっていない義理の親の面倒を見てくれて
主人には 感謝で頭が上がりません。

あと半年と宣告されたことのある血液癌の娘が 
あと半年と宣告されたステージ4の肺がんの父親の
面倒をみるという、まさに言葉だけ聞いたら
悲惨な娘と父親と言う状況でした。

ただ私は 父母には私の病気でずっと心配をかけていたので
最後まで2人の面倒は私が見ようと決めていました。
父も 思うように体が動かず辛かったとは思いますが
一切泣き言は言わなかったし 私と父は 何事も
笑い話にしていたので 周りから見ても介護していた5年間 
さほど悲壮感はなかったかな、と思います。


5年間で一番大変だったのは 母が転んで腕を骨折し 
2か月程度入院していた時期でした。
父の面倒をみながらの母の病院通い、
高齢者を二人抱えるのは時間的に大変でした。
がこの時も 主人 ケアマネさんはじめ妹と娘、お嫁さん 
とみんなで手分けして介護できたのが 幸いでした。
特に妹は 自分も高齢の義理の両親の面倒をみていたにも
かかわらず いつもこちらの助けに応えてくれ 
本当にありがたかったです。

そうこうしている時に 95歳の時に父が自宅で転倒し 
結果的に最後の入院になった後、 自宅に帰る際 
先生から 痰の吸入が夜も必要になったので
自宅でみるのは難しい、と言われました。
(介護5になりました) 
それでケアマネさんと先生のご尽力で
老健に入らせていただきました。
老健とは 自宅に戻るまでの体力をつけるための施設でしたが
高齢の父にはそれはかなわず 結局亡くなるまでの 
最後の一ヵ月ほど そちらで面倒を見てもらいました。

母は 年老いた父を見るのが辛いと言って
その前の病院もそうでしたが 老健にも 
お見舞いに行かなくなっていました。

↓ こちらもニトリの黒いお皿が活躍中です。

10月 お友達と


それで平成17年大晦日に 流石に大晦日だから
お見舞いに行った方がいいよ、と母をなだめ
主人と母と3人で 老健に父を見舞いに行きました。

看護師さんに「 奥さんとお嬢さんが来たわよ、分かる? 」
と促されて 父はかすかに頷いていました。

目を大きく見開いて 私と母をじっと見つめていました。

母は手を握って 頑張ってね、元気でね、
又来るからね、などと言っていました。

私は 父がかなり長い間 目を大きく開いたままだったので
目が乾くのでは、と思い (私がドライアイだからね)
「 疲れるから少し休んだら? 午後に妹と子供も来るからね 」
と言いました。

そうしたら父は少しずつ目を閉じて眠り始めました。

ようやく寝たね~

あんなに見つめられて ちょっと怖かったよね~

なんて母と言いながら じゃぁ 午後にまた来るからね~
と父に向かって小さい声で言い残し 病室を出ました。

その日は大晦日だったので 妹はじめ親戚中が
今夜か明日 わが家に来ることになっていて 
みんなも父の老健に お見舞いに行く事になっていました。

看護師さんに「 父は寝たので 一回帰りますね、
また後で 子供と妹と一緒に来ますので 」 と言って
その場を去りました。

↓ 昨年の初めに主人のお友達が来た時のランチです。
 この頃はコブサラダとグリル料理に凝っていました。


主人のお友達


老健の玄関で靴を履き替えていると バタバタと
看護師さんがやってきて
「 帰らないで下さい! 病室に戻ってください! 」 
と焦って伝えに来ました。

え? なんで? 寝たのに。。。

すぐ病室に戻ると 他の看護師さんが血圧を測ったり
あたふたとしています。

看護師さんは「 今、先生を呼びましたから 」 と
言ったが最後 それ以降は何も言いません。
父はさっきと同じように静かに寝ています。

看護師さんがちょっと出て行った隙に 母が
息をしているかどうか確かめてみて、と
私に言うので えっ?私が? とビビっていると
主人も小さくうなずくので 私が父の顔近くで確かめると 
息をしていない感じがします。
あれ?
お父さん、もしかして死んでる?
と3人で顔を見合わせました。。。

その時看護師さんが戻ってきて
「 廊下で待っていてください 」と言われました。

廊下に出ると その時に長女から電話があり
今、近くの駅まで来たから これから老健に向かうけど
まだ病院にいるよね? 」 と言うので
「 もしかして おじいちゃん、死んでるみたいなのよ~ 」
と私が言ったら 長女はビックリして
「 なに?なに? 死んでるみたいって何? 」 と
驚いていました。

そうこうしていると妹からも電話があり
「 今 家を出たけれど 直接病院に向かった方がいい?
それともいったん家に行く? 」 との事です。
その電話にも私は
「 なんだかお父さん、死んでるみたいなのよ~ 」
と言うしかありません。
だってまだ 先生からも看護師さんからも
何も言われていないしね。
という事で妹もビックリしていました。

この日は大晦日だったのでいつもは常駐している先生も
自宅で待機、という事だったようで 
先生が来るには30分ほどかかりました。

それでようやく先生が到着し、色々手続きを踏んで
死亡確認をしました。
結局 父は亡くなっていました。
いわゆる老衰 と言うような感じでした。

さっきまで大きな目で 私達をじっと見ていたのに。。。

あっけなくて、悲しいよりもビックリした、
と言う感じで 母も同じ感想でした。

看護師さんも驚いていました。
一応 私達の手前
「 奥さんと娘さんの顔を見て安心したのでしょう 」
と言ってくれました。
父はこの頃はベッドで寝ていることが多い日々でしたが
息を引き取る直前まで意識があり 私と母の顔も認識でき
その後眠るように亡くなった父は あっぱれ!な父でした。

お友達をお呼びして


話は少し前に戻りますが 父が亡くなる数日前
両親とも高齢だったことを考え 私と主人は 近くに
葬儀会館が出来たので見学に行きました。

たまたまその日は見学者が他に誰もいなくて
係の方は大変親切に説明をしてくれました。
こちらには95歳の両親がいると話してあったので 
向こうも これはお客さんとしても申し分のない条件だ
と思ったのでしょう、
本当に懇切丁寧に見学、説明してくれました。

調子にのった私たちは いづれはお世話になるのだから 
とパンフレットを見ながら 祭壇や棺桶、骨壺、花、
お料理など多岐にわたって細かく選んでいました。
勿論 今すぐではないけれど こうしておけば 
慌てなくて済むから、と言う向こうの言葉をうけて 
段取りをほぼ決めてきました。

そのうえファミリーなんとかクラブに入ると
(確か入会金は一万円くらい)
葬儀代が1割引きになるというのを勧められ 
(2人目も適応になるという我が家にぴったりのプラン)
絶対 数年の間にはお世話になるのだから 
入っていて損はないね、と夫婦で意見が一致し 
そのファミリークラブにも入会しました。

ただ 最後にその係の方が
申し訳ないけれど入会から(確か)1週間以内の葬儀は
割引の適応にはなりませんがよろしいですか? と
聞いてきました。

私と主人は声をそろえて
「 全然大丈夫、 すぐ亡くなるなんて事はありません 」
ときっぱり言って葬儀会館を去ったのです。

今までも 今夜が山だ、とか そろそろ心の準備を、とか
先生に言われ 危篤状態になりながらも 翌日病室に行くと
にっこり笑った父がおにぎりを食べていた、なんてことが
何度となくあったのですから。
すぐに亡くなる父ではありません、と思っていました。

大分の知人から 秋にカボスが送られてきました

大分 かぼす


そんな事があった数日後に 葬儀のお願いをした私達を見て
会館で待っていた同じスタッフさんは
「 あれっ? あの時の方ですよね? 
  まだお元気だと言っていましたよね? 」 と言って
すごく驚いていました。
「 そうなんですよ~ 私たちも驚いているんですよ 」
と言って 不謹慎ですが ちょっと苦笑いも出ました。

葬儀社で合流した妹夫婦と一緒に葬儀の詳細を決めましたが
数日前に ほぼ決めてあったので それでお願いし
スムーズにお葬式の詳細を決める事が出来ました。

ただ亡くなったのが大晦日だったので お正月を挟み
葬儀の日程がだいぶ後ろにずれ込みました。
でも たまたま親戚中が集まっている期間だったので 
みんなも父とのお別れが十分できたので
それは本当に良かったと思います。

段取りがものすごくいい父だったので 何事もスムーズに
決められたのも 父の思いだったのでしょう。 

カボス鍋


で、葬儀の金額の話ですが スタッフさんが申し訳なさそうに
ファミリー割引は適応にならない、と言ったので 
それは勿論承知しています。
でも もしかして他の割引はないですか?と
手持ちのクレジットカードを数枚並べて見せたところ
そのうちの1枚のカードがその葬儀社と提携しているようで
そのカードで1割引きが適応になりました。

炙り鰹のカボスのせ


主人は あの葬儀の話の最中に 割引の話を持ち出した
私に ヒヤヒヤしたよ、と言っていました。
そのうえそのカードは 以前父が務めていた会社の
カードだったので それも父が段どってくれたのかもしれません。

そんな出来事があった「 私の父の話 」でした。

秋に開業した 「 横浜ベイコート俱楽部 」 に
行った際の写真です。


↓ 2020年9月23日オープン、 新聞に大きく出ていました。

2020.9.23 オープン


ベイコート俱楽部エントランス


母は 父が亡くなった後も元気で 翌年の夏には
私たちと一緒に湯河原や初島に旅行したりしていました。

また父と同じ週2回のディサービスにも通い
そのディサービス生活をすご~くエンジョイしていました。
ケアマネさんは 「 自分の担当しているお客さんの中で
お母さまが一番ディサービスを楽しんでいます 」と言って
すごく喜んでくれました。

ただ 徐々に認知症も出始め 記憶違いや 妄想 幻覚
なども少し現れたので 一人で家に置いておくことは出来ず
目が離せなくなりました。
ただ認知症でも 「明るい認知症」で 
父がそこにいると言って笑ったり
隣のお嫁さんが来たと言って一人で話をしたり
私達に害がある現象はなかったので その点は楽でした。
だから家族旅行にも一緒に連れて行けば安心なので
そうしていました。

ただ亡くなる前の数ヵ月間は かなりの妄想が出て
行動や言動もおかしくなり 昼夜反転し 
介護するのもかなり大変でした。 

↓ 横浜ベイコート俱楽部は エクシブの会員制ホテルで
  ホテル「 カハラ横浜 」と同じ建物の中にあります。
つまり一つの建物に2つのホテルが入っているのです。
みなとみらいの横浜寄りにあり 流線形の建物が特徴的です。 


横浜ベイコート俱楽部


私は介護生活中でも 旅行だけは行かせてもらうね、と
周りのみんなに公言していました。
だってそれがなくなったら 私の人生真っ暗だからね。

で母がそうなってからは ケアマネさんと相談して
ショートスティを利用したり 妹や周りのみんなに
助けてもらい 何とか旅行に行って現実逃避をしていました。

そんな私を見てきっと母は なんて勝手な娘だろうと
呆れていたに違いありません。
でも認知症になっていたので そこまで考えは
及ばなかったかもしれませんし 意外と正気な時も
あったので 母の胸の内はわかりません。

↓ エントランスがとっても素敵です。
  和風でありながら 遺跡を彷彿させる内装です。


エントランス


姉が亡くなってから 母が私に しきりに
私に死なれたら困る、自分たちより先に死なないで
と言っていたので 結局最後は 父母より私の方が長生き出来て 
それが一番の親孝行になったかな、と思っています。
本当に父母より長生き出来てきて良かったです。

↓ スカイロビーです、14階建ての14階にあります。

スカイロビー


そんな母でしたが 最後は自宅で転倒し骨折してしまいました。

ロビーからの景色は インターコンチネンタルグランドや
コスモクロックなど横浜らしい景色が望めます。
( パシフィコ横浜の屋根も見えます )


ロビーからの景色


直ぐ救急車で病院行き 大腿骨骨折とわかり手術をしました。
手術のために いつも飲んでいる血液サラサラのお薬を止め
無事手術もうまくいき 翌日リハビリもはじまりました。
ところが 薬を止めたことで 体中に血栓ができ
その後 色々治療はしましたが そのせいでしょうか、
あっという間に亡くなりました。

突然亡くなったので 病院からは解剖しますか?
と提案され 担当医も変わり 副院長案件になり
ものすごく丁寧に お詫びと挨拶を受けました。
ただ色々解剖されるのはかわいそうだからというみんなの意見で 
そのまま病院を後にし 父と同じ葬儀社にお願いしました。
またしても 葬儀社の担当の方は驚いていました。

行ったのは中華レストランです。
中華レストラン「 眺游楼 」からの景色は
素晴らしいの一言です!


眺游楼 中華レストラン


父が亡くなって一年後 96歳でした。
明るい母でしたし、闘病もなかったので
血色もよく とてもキレイなまま亡くなった母でした。
きっと私に世話をかけたくないという気持ちだったのでしょう。

あれよあれよという間に二人ともいなくなってしまいました。

すべて個室で 目の前には臨港パークとヘリポートが見えます。
ベイブリッジも見えますよ。


臨港パーク


私が病気になりながらも 生きていられたのは 
家族の願いもありましたが 父母の 私には自分たちより
長生きをしてほしい という強い希望が
あったのかもしれないな、と思いました。

エクシブと言えばのショープレートです。

ショープレート



お料理は見た目もきれいで女性向けのコースを頂きました。

ベジタリアン麻婆豆腐杏仁豆腐


接客も丁寧で この中華レストランはカハラのお客様は
利用できないベイコートのお客さま専用です。
( 他の2つのレストランはカハラとベイコートの共有と
  いう事で 11月初旬の時点で すでに
  2020年内は満席と言っていました )
落ち着いて優雅にランチを楽しむことが出来ました。


亡くなったのはコロナ前だったので 
それは本当に良かった、と思っています。

父母がいなくなったら 思いっきり自由に生活するぞ~
なんて思っていましたが。。。。

まさかこんなことになるなんて。。。

むしろ天国にいる父母のほうが 姉と一緒に楽しく
自由に旅行をしていることでしょう。

数年前の写真ですがアマン東京の桜です

2018.4 アマン東京


長らくお付き合いいただきましたが
これが 「 私の家の話 」 でした。

一都三県も 緊急事態宣言が解除されますが
主人の大好きなバリ島へは 当分行けそうにありません。
何処か南の島で ゆっくりしたいな~ と思っています。